Note 03

フィルムルックについてわかっていること ── 市販のLUTでも届かない「フィルムっぽく」の正体を、自分のネガで追った日から

カラーグレーディングの因数分解 ── 「映画っぽく」と言われて、手が止まった日からの結びで、グレーディングでもっとも話題に出る領域として、フィルムのルックに触れました。今回はその先を書きます。

「フィルムっぽい」は、長いあいだ「雰囲気」として扱われてきた領域です。市販のLUTもプラグインも、多くは「それっぽい絵」を出してくれます。私自身、何年かこの「それっぽい絵」を重ねてきました。重ねても、どこかで止まる。どこで止まっているのか、自分の言葉では言えないまま、模索していた時期でした。

「フィルムっぽさ」の正体とは、一体何なのか。その道筋を、自分のネガで追いかけた数年間の体験で紹介します。


自分でフィルムを焼くところから

イマジカでメインカラリストを始めて3年目のことでした。スタジオの作業室で、ARRI LASER(映像データをフィルムに焼き付けるマシン)の担当者と、自作のテストパターンを1本焼いてもらう段取りを詰めていました。

「この会社だからこそできること、自分だからこそできることを、一度やってみたい」。きっかけは、じつは少し情けない話です。「もう少しフィルムっぽく」と言われるたび、市販のLUTや無料のプラグインを重ねていました。暗部の粘りが出ない。ハイライトが硬い。ストックを替えたはずなのに、色の動きが同じ。結果だけをなぞっても、フィルムが絵に何をしているかが、自分の中で像を結びませんでした。

忘れられない立ち会いが一つあります。ある作品の立ち会いの午後3時、監督から「もう少しフィルムっぽく」と言われ、手元の市販LUTを3本重ねました。1時間経っても、暗部が沈むか、ハイライトが硬くなるかのどちらかしか動きません。監督の「そうじゃないんだよな」感が増えていきます。時間だけが進みました。

──自分で焼いて、自分で比べるしかない。

用意したのは、自作のテストパターン1枚です。グレースケールとカラーチャートに実写の背景を重ね、デジタル特有のトーン切り替わりも盛り込む。1枚の中で複数の要件が同時に盛り込まれるように用意しました。これをARRI LASERでネガに焼き付け、現像まで戻します。戻ってきたネガを、当時イマジカに揃っていたIMAGER、CineVivo、Scanityの3機種のスキャナーと、データシネのテレシネ1台で、それぞれ再データ化しました。同じネガでも、機種ごとに色の出し方も粒の見え方も、別物のように違います。

ポジ側も4つのバリエーションで焼きました。ノーマル焼付。ネガ減感。ネガ増感。銀残しをネガとポジで。現像工程のどこを動かすと、絵のどの性質が動くのか。同じ素材で、一度に見比べたかったからです。

こうして、1枚のテストパターンから、十数通りの「焼く前のデジタルデータ」と「フィルムを通ったあとの絵」が手元に揃いました。前と後を、ペアで残しておく。これが、以後の数年間の観察の土台になりました。

数年間、というのは誇張ではなく、本当に数年です。作業の合間に、1組ずつ前後を並べては眺めました。暗部を揃えれば、ハイライトの丸みが見える。ハイライトを揃えれば、暗部の伸びが見える。ネガ減感と銀残しを並べれば、コントラストの増え方が「同じように」ではなく「別の軸で」増えていることが見える。並行して、実作でも試しました。研究の成果を、現場で何度も当て直しました。

フィルムの前と後を、自分のデータでつなぎたかった。

数年並べ続けて見えてきたのは、絵の差は「雰囲気」ではない、ということでした。差は、いつも同じ場所に出ます。ただ、その場所をどう数え上げるかは、すぐには見えませんでした。手がかりは、並行して進めてきた、ルックの4つの軸の中にありました。


なぜ、4つの軸のうち二つだけで足りるのか

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ルックは4つに分けられる。色の広がり・転がり、濃度、カーブ、RGBカラーバランス。これが、並行して進めてきた別の整理の中身です。立ち会いでのやりとりからルックの引き出しまで、この4つがあれば一通り回ります。

ところが、フィルムの前と後を数年並べ続けていると、この4つの重みが均等ではないことに気づきました。フィルムを通す前と後で大きく動くのは、濃度色の広がり・転がりの二つです。カーブもRGBも動きますが、それは結果として動いているのであって、フィルム固有の何かは、ほぼこの二軸に集約されます。濃度は、どの明るさがどれだけ沈むか。色の広がり・転がりは、どの色がどの色に寄るか、そして色がどれだけ強く出るか。フィルムを通した絵は、この二つの軸で他の素材と区別がつきます。フィルムの正体は、濃度と色の混ざり方に絞れる。

では、濃度と呼んでいるものの中身は、一体何なのか。


なぜ、フィルムの黒は粘るのか

フィルムの絵を見たときに、多くの人が最初に口にするのが「暗部の粘り」です。デジタルで影に沈んでいく部分が、フィルムだと、もう一段踏ん張る。沈みきらない。この感覚の正体は、物理の言葉にすると、短い一行で済みます。

染料が積もると、光はその分だけ通りにくくなる。ただし、通りにくくなり方は線形ではありません。同じ量の染料を足しても、明るいところでは大きく光が減り、暗いところでは少ししか減らない。Beer-Lambert則が記述しているのはこの振る舞いで、透過率Tと濃度DT = 10^(-D)で結ばれます。数式は単純ですが、見ている絵の話に翻訳すると、意味が変わります。

暗部では、染料が十分厚く積もっている。そこにもう少し足しても、透過率はわずかしか減りません。だから、フィルムの黒はすぐには沈まない。粘る。一方、デジタルでは、信号値を線形に下げれば輝度もそのまま線形に落ちます。粘る場所がない。

監督やDPが「もう少し粘りがほしい」と言うとき、Poyntonの『Rehabilitation of Gamma』(SPIE, 1998)で議論されているγカーブの特性を意識しているわけではありません。目が覚えている映画の暗部の呼吸を、感覚で指しているだけです。その呼吸の正体は、対数という一行にある。フィルムの暗さは対数的に効いている、とだけ書いておきます。

ストックを変えても、対数という振る舞い自体は変わりません。変わるのは、止まる位置と、色の寄り方です。


なぜ、ストックを変えると色が変わるのか

フィルムを変えるだけで、絵の気分が変わります。Kodakのある番号とある番号を比べただけで、肌の乗り方、空の落ち方、影の温度が、それぞれ違う方向に動く。この差は、長らく「雰囲気」として語られてきました。

ただ、数年ネガを前後比較し続けた自分の目には、雰囲気ではない像が浮かびはじめていました。ストックの差は、分光密度曲線(SDDC:分光染料密度曲線)の形の差です。

カラーネガには、シアン、マゼンタ、イエローの3つの染料層があります。それぞれの層が、どの波長の光をどれだけ吸収するか。その応答を波長ごとにプロットしたのが分光密度曲線です。ストックごとに、この3本の曲線の形が違う。吸収のピーク位置、肩の落ち方、裾の引き方。そこに、ストック固有の性格が集まります。

オープンな実装では、JanLohse/spectral_film_lutのように、各ストックの分光密度曲線を数式で扱う取り組みが進んでいます。Spectral Film Simulationsスレッドでも、このアプローチが何度も共有されています。物理ベースでフィルムを語る土台は、すでに公開されています。

とはいえ、曲線の形が近ければ、本当に同じ絵になるのか。厳密には、同じにはなりません。分光密度曲線は、絵を決める自由度の一部です。後ろには最小濃度(Dmin)、最大濃度(Dmax)、そして現像強度(Alpha)という変数が控えています。曲線が近くても、これらが違えば、出てくる絵は別物になります。

ただ、曲線の形から読めるものは多い。「このストックは肌の赤がどの方向に転ぶか」「青の吸収が広いから、空が鈍く落ちる」。こうした性質は、曲線を一目見れば、ほぼ見えてきます。ストックの違いは、曲線の形の違い。

曲線の違いは、色の話でした。では、明るさの話はどうか。フィルムは、白を飛ばしません。これも曲線が決めています。


なぜ、フィルムは白を飛ばさないのか

デジタルで強く露出を足していくと、どこかで急にパキッと白に張り付きます。信号が天井にぶつかる。フィルムは、ここで違う振る舞いを見せます。ハイライトに入るほど、上がり方が緩やかになる。滑らかに頭打ちする。白に近づきながら、白にはなかなか入らない。

この振る舞いを記述するのが感光曲線のS字です。センシトメトリーの古典的な概念で、露光量と濃度の関係をプロットするとS字の形になります。下の膝をトー、中央の直線部をストレート、上の肩をショルダーと呼びます。

直線部ではリニアに近い応答。ところが、暗部の膝で応答が鈍り、明部の肩でも応答が鈍る。フィルムは両端を柔らかく受け止めます。デジタルセンサーはセルの井戸が溢れた瞬間にクリップしますが、フィルムは染料の積もる速さが、ハイライトに近づくほど遅くなる。だから、白が丸くなります。

この性質が、現場の耳に届く「もう少し抜けを」という言葉の裏にあります。ACESのOutput Transform仕様で議論されているView Transformの設計も、本質はこのS字の再発明です。硬い信号を、どうやって人間の目に心地よい形で受け止めるか。フィルムは、そこを染料と露光で自然に解いていました。白さも黒さも、真っ直ぐでは終わらない。これが、濃度側の読み直しの最後の結論です。

濃度の話はここまでにして、次は色の話に入ります。フィルムの色は、3つの染料に分けて扱おうとすると、必ずどこかで失敗します。


なぜ、フィルムの色は縦割りできないのか

カラーネガは3つの染料層でできている。ならば、シアン、マゼンタ、イエローを独立に扱えばいいように思えます。実際、単純な加法密度のモデルでは、3色の吸収を別々に足し合わせて、結果を得ることができる。ただ、この単純な足し算では、フィルムの絵は出ません。

フィルムの中では、ある染料が生成される過程で、別の層の色にも影響が走ります。層間散乱。そして意図的な非線形補正であるDIRカプラー(現像抑制剤放出カプラー)。染料が作られる反応が、隣の層の現像を抑制する。シアンの応答がマゼンタを揺らし、マゼンタがイエローを動かす。3色は、常に互いに混ざって存在しています。

この混ざりは、現代のオープンソース実装でも慎重に扱われています。agx-emulsionvkdtのfilmsimモジュールでは、単純な加法ではなく、非線形補正ΔDを組み込んだモデルが採用されています。フィルムの「縦割りできなさ」は、物理モデルの中核として避けて通れない性質として扱われます。

立ち会いで「赤の濃度だけ落として、他は動かさないで」と頼まれたとき、デジタルなら軸が独立なので素直に返せます。ただ、フィルムのLUTの上で同じことをしようとすると、動かさないはずのマゼンタやイエローが、連動して動く。ここが、フィルムを触るときの面白さでもあり、手強さでもあります。フィルムの色は、混ざることで成り立っている。

混ざり合う3色をどう受け止めるかは、フィルム自身が決めているだけではありません。印刷するときに、どの光をかけるかでも、大きく変わります。


なぜ、どの光で印刷するかで結果が違うのか

色の混ざり方の話は、フィルム本体だけでは終わりません。ネガが現像できても、そこから先、ポジに焼くときに、光の色と強さで絵はまた動きます。プリンターライトの世界です。フィルムラボでは、RGB3色の光の配分を微調整することで、1本のネガから違う温度、違う濃度のプリントを作り分けてきました。

DaVinci Resolveの「Printer Points」操作は、この物理過程のデジタル再現です。印刷光のRGBを0.25段単位で動かす。指一本分の温度の違いが、肌の印象を変える。Daniele SiragusanoがLowepostのprinter lightsスレッドで、Baselightのフィルムグレードがプリンターライトの振る舞いをそのまま受け継いでいる仕組みを端的に説明しています。

ここで効いているのは、光の色を変えるだけの話ではありません。人間の目は、観察光が変わると、同じスペクトルの反射率を違う色として感じます。これを記述するのが、Moroney・Fairchildたちが2002年にまとめたCIECAM02のような色順応モデルです。プリンターライトを動かすことは、印画紙の染料の応答を変えると同時に、見る側の順応の前提も動かしています。

現場では、この複雑さは、もっとシンプルな言葉でやりとりされます。立ち会いで、監督から「朝の空気に戻したい」と言われたことがありました。時刻の指定でも、色温度の指示でもない、自分が覚えている朝のにおいに近い絵を探してほしい、というオーダーです。印刷光を少し青側に寄せ、暗部の沈み方を整える。監督が頷く。「これだ、この温度」。

こうしたやりとりは、カラーグレーディングの仕事でしばしば現れます。プリンターライトと色順応の言葉を、絵の気分に翻訳し続ける日々です。フィルムは、かける光で色が変わる。

印刷光が決まれば、絵の骨格は定まります。最後に残るのは、粒の話です。粒は、フィルムらしさの署名のようにも語られます。ただ、扱い方を間違えると、その署名は偽物になります。


なぜ、グレインは顔に乗せてはいけないのか

フィルム由来の映像を大きく引き伸ばすと、粒が見えます。この粒がフィルムらしさの署名として語られることは多い。ただ、実際に絵を作る立場からすると、もう少し正確に言えます。フィルムの粒は、画面のどこにどれだけ乗っているかで印象が決まる。一律に乗せると、嘘になります。

フィルムの粒子密度は、露光と濃度によって場所ごとに変わります。Newsonたちの2017年のIPOL論文は、フィルムグレインの統計的な分布をシミュレートする古典的な参照の一つです。Aurélien Pierreの粒子合成解説も、実際の染料雲の挙動をかなり丁寧に追っています。これらに共通するのは、粒は一様なノイズではない、という前提です。

現場で効くのは、二つです。一つは、粒はリニアライト空間で合成する必要があるということ。ガンマの上で加算すると、明部の粒が潰れ、暗部の粒が盛り上がる。実際のフィルムとは逆の振る舞いが出ます。もう一つは、顔には乗せないということ。フィルムは実はとても甘く、肌の中間トーンでは粒がほとんど目立ちません。そこに均一にノイズを足すと、絵が荒れて、顔が前に出てこなくなります。

同じ性質を逆手に取った技が、デグレインとリグレインです。撮影素材から一度粒を落とし、作品共通の新しい粒を乗せ直す。これを丁寧にやると、違うカメラで撮られたカットも、同じ空気の中に入ります。カメラ差を消す道具としても、作品のトーンを揃える道具としても使える、という習慣です。

ここまで、暗さ、色、白、混ざり、プリンター光、粒、を一つずつ見てきました。全部、一つのストックの上に乗っています。ストックを変えれば、足場全体が入れ替わる。ただ、入れ替わり方には、ある法則がありました。


なぜ、知るほどストックは交換可能になるのか

立ち会いで「このシーンはKodakのあの番号っぽく」と注文されることが、昔から何度もありました。ストックを棚から選ぶのはDPや監督で、仕上げに回ってきた絵をどう受けるかが、私の仕事です。正直に言えば、Kodakの番号と絵の振る舞いの対応は、若い頃の私にとって雰囲気の塊でした。数百の名前と、絵の違いが、雰囲気以外の言葉ではつながっていませんでした。

物理で見えてくると、世界が変わりました。パイプライン全体は、どのフィルムでも基本的に同じです。露光が入る。3層の染料層が応答する。層間で混ざる。S字で受け止められる。対数で濃度になる。プリンターライトが乗る。粒が走る。この流れは、ストックが変わっても変わりません。

変わるのは、3本の分光密度曲線の形最小濃度と最大濃度、そして現像強度の組み合わせだけです。ここだけを選べばいい、とわかった瞬間、選び方が決まりました。KodakのMotion Pictureカメラフィルム一覧ACESのAcademy Printing Density(APD)定義で共有されている情報をもとに、作品にフィットする最小濃度と最大濃度を見立て、そこに合う曲線を選ぶ。そういう順番で考えられるようになります。

とはいえ、この3つの組み合わせを全て言い切れるのか、というと、厳密には言い切れません。実際の現像では、温度、時間、液の状態の変動があります。ラボごとに、数字に表れない癖もあります。物理モデルで追えるのは、支配的な部分だけです。残差は、常に残ります。

それでも、構造が見えているときと見えていないときでは、選ぶ行為の質が変わります。「このストックの雰囲気が好きだから」ではなく、「この作品では濃度をここまで沈めたいから、最大濃度の大きいこの系統を選ぶ」。根拠が現場で共有できる。照明やDPと、同じ言葉で棚を見に行けるようになります。フィルムの選択は、構造の選択です。

構造で選べるなら、フィルムは、実は交換可能な道具に見えてきます。ただ、物理で説明されたからといって、フィルムが役目を終えたわけではありません。


なぜ、滅びたフィルムが今も残るのか

映画のポストプロダクションで、フィルムで完パケする案件は、ほとんどなくなりました。撮影も、仕上げも、配信もデジタルです。それでも、フィルムのルックだけは、残り続けています。ドラマで、CMで、MVで、あちこちで「フィルムっぽく」と言われ続けています。

ここまでの9つの問いに、一つずつ物理で答えてきました。対数。分光密度曲線。S字。縦割りできない3色。プリンターライトと色順応。粒の非一様性。そしてストックを構造で選ぶという発想。読み返してみると、「フィルムっぽさ」の中身は、ほぼこの範囲に収まっています。フィルムルックは、雰囲気ではなく、物理で記述できる。

物理で記述できるということは、物理を知っていれば再現できる、ということでもあります。オープンなコードも、公開論文も、教科書レベルのモデルも、PoyntonのDigital Video and HDからDaniele SiragusanoのTexture Management Part 1レクチャーまで、すでに公共財として手の届くところにあります。私自身、数年かけて自分のネガで観察したことの多くが、あとから知った数式の結果の一つであることを知って、肩の力が抜けました。

フィルムは、道具としては役目を終えても、物理としては残り続けます。


なぜ、AIに任せる日を望むのか

物理として残るなら、AIの時代にはどう関わってくるのか。一つの答えは、AIが広く使われるようになって、むしろはっきりしてきました。AIは今、学習データから「まるごとフィルムらしい絵」を出します。こうやって物理で読み直したことを文章にして公開していけば、いずれAI自身がこの物理で絵を読めるようになるはずです。私はその日を歓迎しています。むしろ、早く来てほしいとすら思っています。

ただ、AIが物理で絵を読める日が来たとして、それは「人間は物理を知らなくていい」という話にはならないと、私は思っています。逆です。AIが出してきた絵に次の一手を返すとき、「もう少し暗部に粘りを」「肩で落とす量をもう半段」「このストック系統で、Dminだけ下げた質感」。こういう言葉で返せる人と、「なんかちょっと違う」で止まる人では、AIから引き出せる絵の奥行きがまったく変わります。物理の言葉は、AIとの対話の語彙そのものだと思っています。

それ以上に、物理で読めるようになると、映画の見え方が戻らなくなります。暗部の粘りが、対数の一行として見える。ハイライトの丸みが、S字の肩として見える。ストックを変えたときの色の寄りが、3本の分光密度曲線の形の差として見える。これは、知る前には戻れない種類の面白さです。AIが絵を出してくれる時代になっても、映画を見る楽しみはなくなりません。むしろ、物理が見えるほど、映画は面白くなります。

ここまで触れてきた一次資料は、すべて公共財として手の届くところにあります。PoyntonのDigital Video and HDを開けばγの歴史が、agx-emulsionを訪ねれば現代の分光モデルが、Daniele SiragusanoのTexture Managementを見ればプリンターライトの思想が、そのまま読めます。自分が数年かけて自分のネガから辿ったことの多くは、この先に、もっと体系的な形で待っていました。興味を持った章から一つでも原典に飛んでみると、この記事の残像が一気に解像度を上げます。

それでも、一つだけ譲りたくない場所があります。それは、この作品をどんな気分と温度に向かわせるのか、という一番奥の話です。どのストックを借りるか、何を諦めて何を残すか。その手前までは、どんどんAIに渡していい。けれど、どの気分に置きにいくか、どの温度で終わらせるか、そこだけは人間が決める。絵の向かう先を手放した瞬間に、仕事は仕事でなくなります。AIが十分いい絵を出せるようになるほど、その事実はますますはっきりしてきます。そして、その「向かう先」を手に持ち続けるには、物理で絵を読める目が、きっと役に立ちます。少なくとも、私の手元では、まだ役に立ち続けています。